日記 2021.1

 ・小説本とか映画とかテレビとか、とにかく今ある娯楽の類がなかった原始の時代に生まれていたら何をしていたと思う?とわたしがわたしに聞いた。わたしはよく自分の中の別の自分とこのようにお喋りをしたり、喧嘩をしたり、ときに徹子の部屋ごっこをしたり、ときにグータンヌーボごっこをするのだが、それはちょっとその辺に置いておいて。
 なんか、星とか見て……適当な話とか作って遊んでたかもしれない。星ってすごいし。とわたしは答えた。星ってなんだよ、と思いつつも、確かに、とも思った。その時たまたま外を歩いていて、冷え切った冬の空に星が綺麗に出ていたから。星はすごい。何年の前の光がこんな風に今わたしの視界で輝いている。例えその事実を知らなくても、ゆっくりと周りながら夜になると空に輝くものに心惹かれていたかもしれない。それに、訳もなく不安になるとき、変わらないものが存在することは、不思議と心を安らかにする。途方もない砂漠に放り出されたり、灯台の灯りも見えない大海原に取り残されても、知っている星を見つけることができたら。わたしたちにはオリジナルの感情など殆ど残されておらず、大抵のことは作られ語られ消費されてきた感情を模倣しているに過ぎないけれど、星の輝きはもし真っ新なわたしになれたとしても、心まで届くような気がする。これらもまた、遥か昔からどこかの誰かによって語り尽くされた感慨なのだけど。真冬だけど星空は少しブルーなのだ。

 ・信用していない→素朴、繊細な言語運用、というか自称される繊細さ全般
 ・信用している→大嫌いという感情、祈り、あらゆる茶

 ・家から殆ど出ないし、人と会わないし、バイトの時は社会性の鎧を纏う代わりに意識がかなり飛んでいるので何も覚えていないし、日記といっても書くことが頭の中の出来事かイマジナリーフレンドのことしかない。ずっとイマジナリーフレンドと戯れていると全てを理解してもらえそうになるのでわたし以外がわたしであることなどを忘れてしまう。あっぶねー。わたし以外はわたしではないこと、それをしっかりとわかった上で「あなたはわたしだよ」というのが祈りなのであり、(あくまでわたしは)祈りなしには他人と嘘のない関係を築くことができないので早くどうにかしたい。本当に他人と嘘のない関係を築きたいのか?という疑問は常にあるものの……。

 ・映画を見るときに時々、その映画自体とは関係のないところで心を満たされる。特に古い映画。星の光と似た原理。カール・テオドア・ドライヤーというデンマークの映画監督の『裁かるるジャンヌ』という映画史上稀に見る傑作(らしい)、あまりにも有名な映画がある。確かに滅多に見られないような映画で、個人的にもとても好きだ。そのDVDに鈴木創士さんによる解説が同封されていて、その冒頭にはこう書かれている。「スクリーンは反映の反映でできている。映画は屈折光学のたまものである。それは現実の反映というより、むしろ映画のなかでしか生起しない反映であり、映画は反映の反映の瞬間的描写に満ちている。そして世界は何重にも反射され、結局折れ曲がることになる。しかもこの反映の反映は対極にあるはずの影を同時にともなうことがある。光があれば、光でできていたはずの映画的な闇がある。」
 こんな完璧な映画がほぼ100年も前にコペンハーゲンで公開されて、そして今わたしの目に映っているというそれ自体が途方もない話で、夢のようだ。技術はもちろん発展したけれど、なんかもう映画ができること全て、最初にこの映画がやってしまったのでは?とすら思ってしまう。そんなことはないのだけど、それほどの輝きを持って今もなお光っているのである。
 白黒映画の好きなとこは色々あるけれど、光の陰影をはっきりと感じられるのもその一つで、それはやはり映画というものが「光」ありきの存在だからなんだろう。雪景色は眩しいほど白く、闇は飲まれるのではないかと思うくらいに濃い黒。
 白黒映画といえばこれもまた滅多に見ることのできない素晴らしい映画『私の20世紀』を見た。光の誕生。電気の発明とその魔法のような夢のような煌めき。誰がいった言葉なのかはすっかり忘れてしまったけれど、素晴らしい映画は、決して見れない夢のようなものらしい。わたしたちはスクリーンの反映で、決して見れない夢を見ている。光の屈折、反射、散乱、反映を。
 頭が悪いのでこういうのを全て「映画って……いいですよね」で済ませている。他人、これで解れ!という祈りです。

 ・芸術は最高なので芸術と死にたいが芸術は一生に死んでくれないのでそれは最初から無理な話だった。始まる前に終わってた。恋愛をし交際をする人々が結婚に向かっていくのが本当に恐怖だから、どうしても結婚しなければならないならその日に決めたい。交際0日で結婚させてほしい。潔く殺してくれ、結婚前提の同棲期間(!?)とか手足をゆっっっっっっっっくりと切り落とされているに等しいではないか、なぜみんな正気でそんなことができるのか。人は裏切るし永遠なんてないし縁はどう頑張っても切れるときは切れてしまうが、芸術は裏切らないらしい。芸術が正しいとか芸術無罪であるとかそのようなことはないが、芸術それ自体が罪を犯すことはなくて、人間が愚かなので間違ったところに芸術を担ぎ上げたり、芸術を隠れ蓑に暴力を正当化したり、芸術を裏切ったりするらしいです。芸術を冒涜するなと思う。役を生きることを放棄して、役と同じような境遇にわざと身を置いたり置かせたりする行為が本当に許せないし嫌いで、フィクションを馬鹿にしすぎだと思う。素面で本物の酔っ払いよりも嘘のない酔っ払いになることが、わたしの中の嘘のないフィクションなので。

 ・最初にお茶にミルクを淹れようと思った人、どうもありがとう。偉すぎる。

 ・愛があるとすればこの辺なのかもしれない……といううっすらとした予感はあるが、愛であるという確信は永遠に得られない、というかそれを得てしまうと何かが完成して、そこからは二度と戻ってこれないので、近似値を探してなんとかやっていくしかない。善についても同じ。道徳的な善いことではなく、自分の中にある美に嘘をつかないでいられるときにだけ手に入るもの。

 ・祖母の買い物に付き合うのはわたしの仕事だった。その帰りに祖母は必ずパン屋のチョコレートドーナツを買ってくれた。シンブルなドーナツにチョコレートスプレーがたっぷりとかかっていて、食べ終わった後に袋の中に落ちたチョコを手のひらに出して食べる。荷物持ちとして同行していたはずだけど、帰り道はいつもタクシーに乗っていた。小柄な祖母よりもまだまだ小さかった時のことだ。あのドーナツがあったパン屋は今はもうあの場所にはない。何度も買い物に行った街も、今でも十分に雑多な雰囲気を残してはいるものの、駅のまわりは随分と綺麗になってしまった。あのチョコレートドーナツはもうどこにもないから、時々無性に食べたくなってしまう。もう二度と食べられない。

 ・部屋の中で咲いている花の香りが、ふとした瞬間に鼻腔をくすぐる。というのがわたしの理想とする香水の香り方なのだけど、再現するのはなかなか難しい。元の香り、自分の肌の具合、つける場所、量、時間の経過。存在しない理想の花の香りをいつも探している。あるいはどこにもない海。香りによって想起される存在しないノスタルジーとか。最近は花椒の香りが入ったアイリスの匂いが一番好き。架空の花園。

 

f:id:sawachka:20210126031012j:plain