日記2021.3

 

 暖かくなるにつれ、気が触れてくる。聖なる春!木々が芽吹き、生命が息を吹き返し、桜の花びらが舞い、虫が湧き、頭が沸く。3月の日記やブログを読むといつも気が狂っている、毎日着る服がわからず失敗している、蕁麻疹が出たりしてずっと落ち込んでいて、こんな季節に新しいことをさせるのは本当に良くないと思う。

 

 「暖かくなってきたので気が触れた」と言ったら「年中そうじゃん」と言われ、その友人から高校時代に「澤ちゃんって一年のうち5日くらいしか調子良くないよね」と言われたことを思い出した。そんなふうに言われるが私はいつも元気で、元気なつもりで、元気に落ち込んだり狂ったりしているのだけど、思い返してみれば高校時代の私は、毎朝サイアクの満員電車に乗りながら当時は解散していたバンドの「天国旅行」を聴きながら通学し、頻繁に遅刻し、帰り道はいつも大森靖子さんを聴いて毎日クソだミュージックをしていた。思い出すと恥ずかしい自意識なのだが別に高校時代に限らず今日に至るまで毎日が生き恥マックス!プリキュアなので問題ない。ずっと早く卒業したくて生きていたはずなのだが気がついたら大学とか入っちゃって留年していたので何もわからない。最悪すぎる。大学にいると大学に入ることが当然の環境で生きてきた人間がたくさんいてずっとびっくりして場違いな気がして辛くなったりするし、だから大学生がたくさんいるところ無理だけど、早く卒業することもできなかったので開き直るしかない。ずっと大学生でいたいという気持ちもあって、ずっとずっと余白で遊んで暮らせたらいいのにね。遊ぶっていうのは、ただフラフラしたり、お金を使ったり、そういうことではなくて、余白でいられる状態でいたいってこと。場違いは仕方ない。違うってつらい。場違い、気が違い、違い違い。たがいちがいってポリプロビレンと同じくらい口が気持ちいい。早く違う感じじゃなくなりた〜い、異性愛生殖社会に洗脳された〜いって思ってネットで異性愛生殖溺愛結婚ざまあこんな私がイケメンハイスペック社会的強者成功者に愛されています小説を読みまくったりしてみて本当に無理になってしまった、逆効果だった、お疲れ様でした。誰でもいいじゃん、誰でもいい恋愛を恋愛と呼ぶならもう恋愛とか言わなくていいじゃん、欲望が溢れて消費されまくってオリジナルの欲望なんてもうどこにも残ってなくても、フィクションでもいいから固有の欲望を探してよ!というわけで私の荒野に吹きすさぶ嵐に相応しいのは『嵐が丘』だけでした、ここまで意味わからない日記読んでるならみんな『嵐が丘』読んで。

 

 大学生活もほぼ終わり、卒業しないのに卒論をおさめたので、あと一年はボーナスステージ、もう一年遊べるドン!(学費の吸い込まれる音)なんだけど、ああ私は本当に文学が好きで、愛してて、でも文学を研究するのには向いてなかった。片想いめっちゃ得意なのでいいんですけど。文学なんて最悪だし、太宰治のせいで自分の人生に恥とか見出すようになってしまったし、萩原朔太郎なんて読んだから、初めから欠けている人間の孤独な心は決して満たされないのだと知ってしまったし、イェリネクなんて読んだので、母から正しく愛されることができなくなって、ついでに言葉の官能さえ知ってしまったし、ドストエフスキーなんて言わずもがな、空っぽな自分を他人の文字で埋めるのに躍起になった結果がこれだもの。こういう個人的な感傷と渇望でやってるから批評とか研究とか一ミリも向いてない。努めて冷静にやってるつもりなのに描くものが全てスピリチュアル読書感想文!ぎゃー!結論は啓示。降ってくる。だから来ない時もある。ああ、でも文学が私に与えてくれる幻想、決して行くことのできない花園。絶対に行けない場所に行きたくて、それ以外はどうでもいい。文学は最悪とか言ってごめん、戻らない日々も手に入らないものも最低愛おしくないよ
って強がりたいけど、まだ文字をたどっていける気がするから愛してるって言っておくね。

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日記2021.2

 

 抱きしめる

 

自分で自分を抱きしめてあげることで成し遂げられる何か。相手に抱きしめてもらって初めてその方法がわかることもある。それが恋であれ愛であれ、もっと違う何かであっても。恋愛の過程にある自己受容が大好き。自己受容が恋愛によってのみなされるわけではないのだけど、相手を大事にすることで自分を大事にできるその瞬間の煌めきを愛している。「君の名前で僕を呼んで」みるとわかること。「貴方を愛する私を愛する」のとも、「貴方が愛する私を愛する」のとも少し違う、ただ「私が私を愛する」方法を他者を媒介にして得ること。切り分けたオレンジの片方、半身を、得ても失っても、もうそばに居なくても、一つであった記憶を思い出すこと、忘れないこと。

 

 

 祈り(あるいはもっと確かな)


まだ食い初めし頬の特別なやわらかさ。
人は食べるもの触ったもの見るもの聴くこと、身体に取り込むすべてのもので構成されている。目、耳、口、心、手、足。
生きて帰りたいならば、冥界の食べ物をけっして口にしてはいけないよ。つまりその世界のものを食べることはその世界に身体を馴染ませること。ご飯を食べ始める前の赤ちゃんは半分この世にまだ来てないみたいだ、まだ足を踏みしめることができない、わたしたちとは違う重力の世界にいる、ふわふわとして格別。

 

 

 さびしさの泉を決して絶やしてはいけないよ。


寂しさについてたくさん考えて、たくさん書くことがあったのだけど書けば書くほどさみしさが氾濫しそうになったのでやめた。悲しみよ、さようなら、全部消した。でもわたしの言葉のすべてはさみしさの泉から生まれるので決して絶やしてはいけないのだという。(神託)

 

 

 素敵な暴力の世界へようこそ。


相互にやり取りされる感情のすべては暴力になる可能性をおびていて、というか、もう既に暴力なのかもしれない。手遅れ。恋愛は悪質タックル、つまり恋愛は暴力で、わたしたちはそれを"やらされている"んだということを常々主張し続けて、あんまり賛同を得られたことはないけれど、わたしの中ではもうそれは確信に近い。ロマンティックは、絵画や物語や夢によって形作られて、わたしたちはそれを踏襲しているにすぎないし、心からロマンティックな瞬間は、本当は人とは共有できないのに、している気になっている。ロマンティックは本当は孤独だし、わたしのロマンティックは誰のものにもならないはずなのに。バーカバーカ。

 

 

 びっくり箱2.0


知的好奇心を箱に例えていた物語があった。無限の空間に美しい箱が無数にあって、しかしわたしたちの時間は有限で、箱を選ばなくてはならない。箱の中には素敵なものがあったり、なかったり、さらに箱があったりするのだけど、今のわたしの状態をそこに擬えるならば、どの箱も空っぽ。
本を読む、映画を見る、絵を眺める、箱が開く。でも箱の中には何もない。わたしには見えないからだ。役に立つ、何かを得る、心が豊かになる、そういったことの全てがない。ただ箱を開けるのが楽しい。赤ちゃんがひたすらティッシュを取り出すのと同じ。箱を開ける、開けると開く、それが楽しい。そしてときどき何してるんだろうなと思ってひどく落ち込む。赤ちゃんよりもより複雑な感情の学習をしてしまっているからだ。感情をもっと最適化して、解像度を低くしてしまいたいが、合法的に可能な方法がわからず、酒か煙草で脳を曇らせるしかない。酒も煙草も美味しいのが一番ではあるけれど、たまにこういう使い方をしてしまう。それでもずっと箱を開けたい、人生全てを使っても足りないほどたくさんの箱を。

 

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日記 2021.1

 ・小説本とか映画とかテレビとか、とにかく今ある娯楽の類がなかった原始の時代に生まれていたら何をしていたと思う?とわたしがわたしに聞いた。わたしはよく自分の中の別の自分とこのようにお喋りをしたり、喧嘩をしたり、ときに徹子の部屋ごっこをしたり、ときにグータンヌーボごっこをするのだが、それはちょっとその辺に置いておいて。
 なんか、星とか見て……適当な話とか作って遊んでたかもしれない。星ってすごいし。とわたしは答えた。星ってなんだよ、と思いつつも、確かに、とも思った。その時たまたま外を歩いていて、冷え切った冬の空に星が綺麗に出ていたから。星はすごい。何年の前の光がこんな風に今わたしの視界で輝いている。例えその事実を知らなくても、ゆっくりと周りながら夜になると空に輝くものに心惹かれていたかもしれない。それに、訳もなく不安になるとき、変わらないものが存在することは、不思議と心を安らかにする。途方もない砂漠に放り出されたり、灯台の灯りも見えない大海原に取り残されても、知っている星を見つけることができたら。わたしたちにはオリジナルの感情など殆ど残されておらず、大抵のことは作られ語られ消費されてきた感情を模倣しているに過ぎないけれど、星の輝きはもし真っ新なわたしになれたとしても、心まで届くような気がする。これらもまた、遥か昔からどこかの誰かによって語り尽くされた感慨なのだけど。真冬だけど星空は少しブルーなのだ。

 ・信用していない→素朴、繊細な言語運用、というか自称される繊細さ全般
 ・信用している→大嫌いという感情、祈り、あらゆる茶

 ・家から殆ど出ないし、人と会わないし、バイトの時は社会性の鎧を纏う代わりに意識がかなり飛んでいるので何も覚えていないし、日記といっても書くことが頭の中の出来事かイマジナリーフレンドのことしかない。ずっとイマジナリーフレンドと戯れていると全てを理解してもらえそうになるのでわたし以外がわたしであることなどを忘れてしまう。あっぶねー。わたし以外はわたしではないこと、それをしっかりとわかった上で「あなたはわたしだよ」というのが祈りなのであり、(あくまでわたしは)祈りなしには他人と嘘のない関係を築くことができないので早くどうにかしたい。本当に他人と嘘のない関係を築きたいのか?という疑問は常にあるものの……。

 ・映画を見るときに時々、その映画自体とは関係のないところで心を満たされる。特に古い映画。星の光と似た原理。カール・テオドア・ドライヤーというデンマークの映画監督の『裁かるるジャンヌ』という映画史上稀に見る傑作(らしい)、あまりにも有名な映画がある。確かに滅多に見られないような映画で、個人的にもとても好きだ。そのDVDに鈴木創士さんによる解説が同封されていて、その冒頭にはこう書かれている。「スクリーンは反映の反映でできている。映画は屈折光学のたまものである。それは現実の反映というより、むしろ映画のなかでしか生起しない反映であり、映画は反映の反映の瞬間的描写に満ちている。そして世界は何重にも反射され、結局折れ曲がることになる。しかもこの反映の反映は対極にあるはずの影を同時にともなうことがある。光があれば、光でできていたはずの映画的な闇がある。」
 こんな完璧な映画がほぼ100年も前にコペンハーゲンで公開されて、そして今わたしの目に映っているというそれ自体が途方もない話で、夢のようだ。技術はもちろん発展したけれど、なんかもう映画ができること全て、最初にこの映画がやってしまったのでは?とすら思ってしまう。そんなことはないのだけど、それほどの輝きを持って今もなお光っているのである。
 白黒映画の好きなとこは色々あるけれど、光の陰影をはっきりと感じられるのもその一つで、それはやはり映画というものが「光」ありきの存在だからなんだろう。雪景色は眩しいほど白く、闇は飲まれるのではないかと思うくらいに濃い黒。
 白黒映画といえばこれもまた滅多に見ることのできない素晴らしい映画『私の20世紀』を見た。光の誕生。電気の発明とその魔法のような夢のような煌めき。誰がいった言葉なのかはすっかり忘れてしまったけれど、素晴らしい映画は、決して見れない夢のようなものらしい。わたしたちはスクリーンの反映で、決して見れない夢を見ている。光の屈折、反射、散乱、反映を。
 頭が悪いのでこういうのを全て「映画って……いいですよね」で済ませている。他人、これで解れ!という祈りです。

 ・芸術は最高なので芸術と死にたいが芸術は一生に死んでくれないのでそれは最初から無理な話だった。始まる前に終わってた。恋愛をし交際をする人々が結婚に向かっていくのが本当に恐怖だから、どうしても結婚しなければならないならその日に決めたい。交際0日で結婚させてほしい。潔く殺してくれ、結婚前提の同棲期間(!?)とか手足をゆっっっっっっっっくりと切り落とされているに等しいではないか、なぜみんな正気でそんなことができるのか。人は裏切るし永遠なんてないし縁はどう頑張っても切れるときは切れてしまうが、芸術は裏切らないらしい。芸術が正しいとか芸術無罪であるとかそのようなことはないが、芸術それ自体が罪を犯すことはなくて、人間が愚かなので間違ったところに芸術を担ぎ上げたり、芸術を隠れ蓑に暴力を正当化したり、芸術を裏切ったりするらしいです。芸術を冒涜するなと思う。役を生きることを放棄して、役と同じような境遇にわざと身を置いたり置かせたりする行為が本当に許せないし嫌いで、フィクションを馬鹿にしすぎだと思う。素面で本物の酔っ払いよりも嘘のない酔っ払いになることが、わたしの中の嘘のないフィクションなので。

 ・最初にお茶にミルクを淹れようと思った人、どうもありがとう。偉すぎる。

 ・愛があるとすればこの辺なのかもしれない……といううっすらとした予感はあるが、愛であるという確信は永遠に得られない、というかそれを得てしまうと何かが完成して、そこからは二度と戻ってこれないので、近似値を探してなんとかやっていくしかない。善についても同じ。道徳的な善いことではなく、自分の中にある美に嘘をつかないでいられるときにだけ手に入るもの。

 ・祖母の買い物に付き合うのはわたしの仕事だった。その帰りに祖母は必ずパン屋のチョコレートドーナツを買ってくれた。シンブルなドーナツにチョコレートスプレーがたっぷりとかかっていて、食べ終わった後に袋の中に落ちたチョコを手のひらに出して食べる。荷物持ちとして同行していたはずだけど、帰り道はいつもタクシーに乗っていた。小柄な祖母よりもまだまだ小さかった時のことだ。あのドーナツがあったパン屋は今はもうあの場所にはない。何度も買い物に行った街も、今でも十分に雑多な雰囲気を残してはいるものの、駅のまわりは随分と綺麗になってしまった。あのチョコレートドーナツはもうどこにもないから、時々無性に食べたくなってしまう。もう二度と食べられない。

 ・部屋の中で咲いている花の香りが、ふとした瞬間に鼻腔をくすぐる。というのがわたしの理想とする香水の香り方なのだけど、再現するのはなかなか難しい。元の香り、自分の肌の具合、つける場所、量、時間の経過。存在しない理想の花の香りをいつも探している。あるいはどこにもない海。香りによって想起される存在しないノスタルジーとか。最近は花椒の香りが入ったアイリスの匂いが一番好き。架空の花園。

 

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